ハナンダー橋

バイクさんぽ
スポンサード リンク

ハナンダー橋の存在を知ったきっかけは、YouTubeのフォロワーさんからのDMでした。

YouTubeフォロワーさんからのDM

「ハナンダー」と地元で呼ばれる、琉球石灰岩が自然の侵食により形成され天然にできた自然橋が沖縄県八重瀬町にあります。ハナンダーとは、牛の鼻輪を思わせる形からそう呼ばれたとの事です。

ハナンダー橋の下には、白水川が流れていて、古くからか各間切や村々への移動の際に利用されてきた経緯があると伝えられています。長さは約29m、幅約10m、高さ約10m。

このような天然にできた橋は、国内では唯一ここだけで見ることができるそうです。沖縄にいて今回初めて知りました(汗)。


もともと以前の職業柄や歴史好きなこともあり、沖縄の稲作の歴史などを調べていきたいと思っていたのですが、このような声を頂いたのはすごく嬉しいことでもあり、私のチャンネル内で「沖縄発見バイクライフ」と少しづつつけ始めたのも、この方の後押しあってのことで感謝です♡

ハナンダー橋

地元でハナンダーと呼ばれる琉球石灰岩より形成された天然の橋。本来は洞穴であったものが地殻変動で崩壊した残骸あるいは長い歳月をかけて風雨や橋下に流れる白水川などによる浸食作用を受けて現在の部分を残した形になったと考えられている。

橋の長さ約30m、幅約10m水面から橋上の路面までの高さ約8mあり、アーチの下部には長さ10~40cmのつらら石のほか、カーテン上の鍾乳石フローストーン等が見られる。

ハナンダーは古くから交通の要所であり、地域住民にとっては暮らしと深く関わる生活道路であった。また地元では通行のための橋としてだけでなく、自然が作り出した独特な風景の一部として認知され親しまれてきた。

ハナンダーは天然に形成された琉球石灰岩の橋で古来から地域住民に親しまれ現在まで変わらぬ景勝地として意義深い。

ハナンダー説明看板より引用

元々は洞窟で、その中に川が流れていましたが、長い年月が過ぎていくにつれて洞窟は落石し、残った一部が現在のような形になったと考えられています(2021年3月26日に、国の登録文化財に認定)。

「ハナンダー橋」琉球石灰岩により形成され天然にできた自然橋

動画には、もともと洞窟だった名残というか・・鍾乳洞の中を思わせる雰囲気は十分感じられる光景が収められています。

興味のある方は動画アップ次第リンクを貼りますのでご視聴くださいませ。

長い年月をかけて変化してきた姿形はまさに自然の力。その時間と歴史に思いを馳せると不思議な感覚になります。

ハナンダー橋の下に流れる白水川は澄んでいて綺麗な川でした。この先もこの景観がそのまま保たれるかは自然のみぞ知る・・・ですね。

ハナンダー橋の向かいには小さな駐車場なような場所があり、そこに石段があります。

登って行くと「玻名城之殿」という看板が見えてきます。その石段を登りきると具志頭体育館前駐車場につながっているようでした。

ハナンダーには、この具志頭体育館前駐車場から石段を降りて来ることも可能なようです(「ハナンダー橋」と「玻名城之殿」へは、南の駅やえせからスマホのグーグルマップでも簡単にたどり着くことができますよ♪)。

玻名城之殿へ向かう石段

その石段を登る真ん中あたりに「玻名城之殿」という看板が見えてきます。

古琉球時代・近世琉球時代においては、村落を創建するときには必ず自分たちの祖先の人たちや神々を招き入れて、共同祭祀を行う場所を設けていたそうです。

それがその村落の「殿(方言でトゥン)」であり、玻名城之殿は古琉球時代に玻名城部落が移動してきた際に建立された殿であるとのこと。建立年代はおよそ800年ほど前、12世紀から14世紀の間だそうです。

 殿は方言では「トゥン」という。古琉球時代・近世琉球時代においては、村落を創建するときには必ず、自分達の祖先の人達(祖霊神)や様々な神様を招き入れて、共同祭祀を行う場所を設けた。それがその村落の殿である。
 玻名城之殿は、先史時代から現在の多々名城の城内にあった玻名城集落が、古琉球時代に、この殿が存在するこの玻名城古島の地に集落移動したときに建立された殿である。建立年代は12世紀の後半から14世紀の前半の間である。
 玻名城集落の人々は、旧暦6月15日の稲大祭(ルクグヮチウマチー)、この玻名城之殿で集落をあげて共同祭祀を行い、集落や集落民の安泰を守護し、諸作物の豊作をもたらしてくれた神々に感謝するとともに、これからの集落や集落民の安泰と、諸作物の豊作を祈願した。

平成9年(1997年)3月
具志頭村(現八重瀬町)教育委員会

かつて花城按司が多々名城を築城する際、その場所に存在した玻名城集落を移動させたと伝えられていますが、その移動した先で建立した玻名城之殿は、この場所から集落や集落民の繁栄を見守っていたのでしょうね。

多々名城に関しての記述が、具志頭体育館の方向に坂道を登っていくと、ちょうど道の突き当たりで何かを示す看板に掲載されていた内容にありました。

この急な坂道を登りつめた山の頂が多々名城である。

多々名城は13世紀の末頃か、あるいは14世紀の初期頃に、花城按司が築城したと言われ、築城したときは花城(はなぐすく)と言われたが、後に多々名城(たたなぐすく)と呼ばれるようになった。この地に花城が築城される以前は、この地には現在の玻名城の集落が存在していた。

城の規模はおよそ33,000平方メートルもあり、本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、御内原跡というように、各城郭で囲まれている連郭式の平山城形式の城である。
 
多々名城については、おもろそうしに十三種ほどのおもろがあり、そのおもろなどからして、代々の花城按司や多々名按司は、勢力を誇り繁栄していたであろうことがうかがえる。
 
花城按司、多々名按司は、盛んに海外貿易を行い、素鉄を輸入しそれによって武器をつくり武力を高め、農具をつくってそれを領地の農民に配り農業を盛んにならしめた。その貿易港は、具志頭村と糸満市の境界に位置する「ワタヤー」であった。

多々名城跡の設置看板より

まだまだ知らないディープな沖縄スポット、行ってみますね!

スポンサード リンク