戦跡から「沖縄戦」を見つめ直した、もう1つの沖縄 ①

ななちゃれんじ
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ゆったりとした時間が流れ、海に焦がれて足を運ぶ方も多く、人気な観光地として上位にランクインする沖縄。


沖縄といえばその裏に「沖縄戦」という歴史があります。

戦争はもちろん沖縄だけでなく日本全体での出来事ではありますし、なんなら耳にタコとなるような言葉かもしれません。

しかし振り返ってみると、沖縄で生まれ育った私ですら、歩んできた悲しい歴史を考える時間は少ないものでした。

沖縄戦に意識を向けるのは、今に始まった事ではなく、子供の頃から学校でもその写真展などは見てきたものです。

しかしながら、大人になって改めてその「歴史的出来事」に目を向ける出来事があったのです。そのきっかけが元となり、昔祖母から聞いた記憶と今学び始めた沖縄戦という歴史が繋がり、それらを綴ることにしました。

その出来事から知ったことは、今まで知らなかった沖縄戦のこと。知ってるつもりで本当はちゃんと把握してもいなかったのは衝撃でした。

沖縄戦の戦跡は誰もが知る(と思っています)平和記念資料館、ひめゆりの塔などは修学旅行などで訪れたことがあるかもしれないと考え、ある意味マイナーな場所も含めて、今回気軽に訪れることのできる沖縄戦の戦跡を、後半で5ヶ所ほど、まずはまとめております。

沖縄戦は第二次世界大戦末期の1945年、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いです。

戦いは約3か月に及び、アメリカ軍や日本軍だけではなく、地元の住民を巻き込んだ壮絶な戦いでした。沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされます。

では少し流れをみていきましょう。

沖縄で最初の大きな被害は1944年10月の「10・10空襲」(死者は軍人と民間人あわせて668人とされる)。1945年になって、航空機で軍艦に体当たりする日本軍の「特攻」攻撃も始まりました。特攻による死者は数カ月間に約2500人とも言われています。

太平洋戦争末期、アメリカ軍は日本本土の侵攻の足がかりとして沖縄を目標にしました。日本本土への攻撃をかけるには、本国アメリカからよりも沖縄からの方が圧倒的に利便性があるからです。

アメリカ軍は1945年3月26日、圧倒的な戦力をもって慶良間諸島に上陸しました。このころから約3カ月にわたる戦いを、沖縄戦と呼んでいるのです。

アメリカ軍は4月1日には沖縄本島中部西海岸へ上陸(現在の北谷町~嘉手納町の海岸付近)、ほぼ無傷のまま上陸し、最初の目標であった日本軍の滑走路を確保しました。


アメリカ軍の中には日本軍の抵抗が少ないことから、沖縄を早期に制圧できると考えていたのそうなのですが、日本軍はこの時すでに内陸での徹底抗戦を作戦としていたので、首里の司令部に近づくにつれ日本軍の反撃にあい、泥沼の長期戦になっていきます。

アメリカ軍は沖縄本島上陸後、南北に別れ沖縄の占領を目指し侵攻していきます。

沖縄本島の上陸地から本島北部にかけては約2週間で、米軍に占領されましたが、日本軍が主に待ち構えていた本島中部では、約40日間にわたって激しい戦いとなったのです。

日本軍はアメリカ軍上陸前から本島中部から首里一帯にかけて、隆起珊瑚礁と柔らかい泥灰岩や砂岩で広く覆われた地層をうまく活用し陣地を構築していました(陣地構築にあたっては、日本軍兵士だけではなく、多くの沖縄県民も動員されています)。

これらの陣地をいかした日本軍は大規模な反撃に転じ、北上原(中城村)、嘉数(宜野湾市)、前田(浦添市)、コニカルヒル(与那原町・西原町)、シュガーローフ(那覇市)など、首里周辺では大規模な戦闘がおきました。

どの戦闘でも日米双方の兵士・物資に損害が大きく出ましたが、アメリカ軍は圧倒的な物量で、徐々に日本軍を追い詰め首里に迫ってきます。

1945年5月後半首里の日本軍司令部は、ここで司令部ごと南部に撤退し、持久戦を継続することを決定したのです。

日本軍は本島南部の摩文仁(糸満市)を司令部とし戦闘を継続します。しかし、沖縄本島南部は地元住民が多数残っており、それが住民を巻き込んだ悲惨な戦闘になっていったのです。

沖縄本島南部にはガマと称される自然洞窟がいくつもあり、ガマには避難した地元住民と首里から撤退した日本軍で溢れ、投降しようした住民を日本軍兵士が虐殺、日本軍と住民の集団自決・・・

日本兵に命を助けられた人はもちろんいるのでしょうが、日本兵に命を脅かされたり、スパイとみなされ、実際に命を奪われたりした人たちがたくさんいたことから、幾度ともなく、私たちは沖縄戦を学んでいた子供の頃から「日本軍は住民を守らなかった」と語りつがれていたのは、そのような背景があるからかもしれません。

戦争は一般に軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦うものと考えられるのですが、沖縄戦では、10代前半の子どもも含む住民が、足りない軍人の代わりや手伝いをさせられたりしていました。軍人も、武器をもたない住民も、まぜこぜになったまま地上戦が続きました。

太平洋戦争の間には日本本土でも、空襲や原爆などの大変な経験があります。

沖縄戦がクローズアップされるのは、沖縄には米軍が上陸し、住民が暮らしていた場所で、米軍と日本軍が戦ったからではないでしょうか。

空からの攻撃にくわえ、陸からは銃や大砲、火炎放射器で襲われ、海からは艦砲射撃で狙われた。爆弾が大嵐のように降り注いだことから「鉄の暴風」とも言われています。

米軍は「ありったけの地獄をあつめた」戦場と呼んだことからも、その様子は想像に難くないでしょう。

地下に日本軍の司令部があった首里城も跡形もなくなりました。地形すら変わってしまったといわれています。

特に多くの住民が犠牲になった沖縄本島南部の喜屋武半島では、1カ月間に約680万発、住民1人あたり50発ほどが撃ち込まれた計算に値するそうです。

この沖縄戦での戦力は、米軍はおよそ55万人、日本軍はおよそ10万人。武器の量や性能をあわせた戦力の差は米国が日本の10倍以上。

しかも日本軍の10万人のうち、2万数千人は、沖縄にいる一定の年齢の男子を急きょ兵隊として集めてつくられた「防衛隊」や「義勇隊」、いまの中学生や高校生くらいの生徒たちでつくる「学徒隊」でした。

防衛隊の年齢は17~45歳とされていますが、実際にはもっと幼い子どもや高齢の人もいたといわれています。軍隊の訓練も受けず、武器もないまま戦いに参加させられることもありました。学徒隊では「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」や「鉄血勤皇隊」が代表例です。

沖縄戦においての戦死者は、米国側1万2520人。日本側はその15倍、18万8136人が亡くなったとみられています。

このうち沖縄県出身以外の日本兵は6万5908人。沖縄県出身の軍人・軍属(正規の軍人、防衛隊や学徒隊など)は2万8228人。一般の住民は9万4千人。沖縄県民全体では12万2千人以上、県民の4人に1人が亡くなったということになるのです。

ただ、戸籍も焼けてしまって、亡くなった人の数ははっきりわかっていないこともあり、家族全員が死んでしまった家もあることから、もう少し多いのかもしれません。

名前もわからなくて戦没者の名前を刻んだ「平和の礎」には、○○さんの「長男」とだけ彫られている人や、子どもだった人のなかには、両親が亡くなって自分の生年月日も、名前さえわからない人もいます。

米軍の砲弾や銃弾を受けただけでなく、自ら命を絶つ「自決」で亡くなった人や、餓死や栄養失調、マラリアで死亡した人もたくさんいました。

日本軍のトップだった牛島司令官が自決したのは6月23日(22日説もある)。

この日をもって、日本軍の組織的戦いは終わったのですが、自決の前に「最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」と命令を出したと言われています。それはつまり、降伏するのではなく、死ぬまで戦いつづけろ、と。

(*この日本軍の組織的戦いが終了したとされる6月23日は、沖縄で「慰霊の日」として休日になり、昼には一分間の黙祷を捧げるのが沖縄では習わしとなっています。)

ただ、そこで戦争は終わりませんでした。

実際はトップの自決を知らず、逃げ隠れたりし続けていた人もたくさんいますし、6月23日以降に亡くなった人も多くいます。久米島では8月にかけて、日本軍が住民を手にかけるということも起こっています。

米軍が沖縄戦を終えた、と宣言したのは7月2日。沖縄など南西諸島の日本軍が全面降伏に調印したのは9月7日でした。

戦後、米軍は日本全体を占領し、基地を日本各地に配置。

1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し日本は独立しましたが、沖縄は切り離され、72年の本土復帰まで米軍統治下におかれました。

その間、日本各地の米軍基地はどんどん減らされてきたのですが、今なお、日本にある米軍専用の基地の7割が沖縄に集中しています。

沖縄では現在も、地中には沖縄戦で亡くなった何千もの人の骨が埋まったまま。撃ち込まれた爆弾で、たまたま爆発しなかった不発弾も約2千トンが地中に残っていて、戦後何十年もたってから爆発して亡くなった人もいます。不発弾の撤去に関しては、この後80年〜かかるとも言われるほど目処が立っていない量が埋もれているとも考えられています。

不発弾が爆発する。
遺骨も墓におさめられない。
米軍基地もたくさんある。

「まだ戦は終わっていない」と言われるのは、こうしたことにあるでしょう。

少し長くなってしまいましたが、今回お話した内容もだいぶ端折っているものです。ただ、それを含めて、教科書で学んできたことがほんの一部で「わかった気になっていた」ことに気がつきました。

恥ずかしいことに、「沖縄戦はいつから」に対して、当時の方が思っていた十・十空襲ではなく、米軍上陸1945年4月1日だったと思っていたことは、その最たるものだと思います。

そして幼い頃に聞いてきた「日本軍は住民を守らなかった」という見方だけでなく、住民目線・日本軍目線・米軍目線などの様々な角度で考えていくべき時に入っていると感じました。

沖縄に住む人々へも向けて、決して忘れてはならない、もう一つの沖縄を見つめ直す時間となれば幸いです。

「沖縄戦」終結から77年。

日米双方およそ20万人が命を落とす凄惨な舞台となった沖縄には、県内各地に戦跡が残っていますが、時間経過とともに立ち入ることができなくなっていく場所も増えています。

時間はかかるかもしれませんが、ある目標に向けて、まずは平和ガイドとして歩んでいけるように私自身学んでいこうと思います。

写真資料が無く、文字ばかりで読みづらい部分もあったかもしれません。そんな中、ここまで読み進めてくださって、本当にありがとうございました。

冒頭でお伝えした戦跡について綴った記事は以下になります。お時間のある方はぜひ、そちらも覗いてみてください。

富盛の石彫大獅子

第24師団第1野戦病院 手術場壕

独立高射砲第27大隊

白梅之塔

バックナー中将戦死之跡

おまけ

イリュージガマ

広島・長崎の原爆資料館、鹿児島の知覧特攻平和会館などは前に訪れましたが、他にも全国各地にそのような資料館があるようなので、回ってみたい気持ちでいっぱいです。

【 関連過去記事 】

自分の心が動かなければ何も始まらない
魂魄の塔

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