魂魄の塔

ななちゃれんじ
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「魂魄(こんぱく)の塔」は、沖縄戦跡国定公園内にあり、戦後最も早く住民の手によって建立された慰霊塔だそうです。

沖縄戦跡国定公園とは、糸満市摩文仁を中心に東風平町の一部、具志頭村の一部及びこれらの地先海域を含めた5,059ヘクタールの地域。

沖縄戦跡国定公園

公園指定の趣旨は、第二次大戦における日米両国の激戦地として知られている本島南部の戦跡を保護することにより、戦争の悲惨さ、平和の尊さを認識し、20万余りの戦没者の霊を慰めるとともに、延長11キロメートルにおよぶ雄大な海蝕崖景観の保護を目的に設けられた公園で、戦跡としての性格を有する国定公園としては我が国唯一のものです。

沖縄県ホームページより

糸満市米須集落の南方300m、海岸寄りに位置する「魂魄の塔」。

この糸満市米須一帯は、1945(昭和20)年の沖縄戦において6月以降に戦場となった場所であり、北から進攻して来る米軍に対して多くの日本軍と住民が追い詰められた場所でもあります。

沖縄戦終盤の6月下旬ごろになると、日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い、陸、海、空からの攻撃を受けて、敵弾にあたって犠牲になる者が続いてい来ました。

米軍は生き残った住民と日本兵を収容所へ送ったため、おびただしい戦没者の遺体は戦闘終結後もそのまま残されたのです。

「一帯は戦没者の遺骨が「道路、畑の中、周辺いたる所に散乱していた」という記述を見たときには、言葉を失いました。

遺骨収集に参加した当時の高校生の証言によると、「勉強はいつでも出来るから天気のよい日は収骨作業に協力し、晩6時から授業して欲しい」と望んで参加したと言います。


その遺骨はミイラ化した状態の遺体、折り重なるように見つかった大人や子供の遺骨があり、激戦地で逃げ場を失った住民の悲惨な最後を留めていたそうです。ミイラ化した遺体は「グブリーサビラ(失礼致します)」と合掌して手足を崩し、一番上に頭蓋骨を乗せて「ウンチケーサビラ(ご案内致します)」と米軍の担架で運び出したといます。

終戦直後、米須地区に移転収容された旧真和志村の住民がいたるところに野ざらしな遺骨に心を痛め、米軍の許可を得て遺骨収集班を結成。

遺⾻は⼀箇所に集められ、大きな穴が掘られ、その中に収められたそうです。 それでも収まりきれず、積み上げられ⼀つの大きな⾻の山が築かれたというから、犠牲者の数が想像できます・・・。

周囲から石をかき集め、 納⾻堂が完成し「魂魄の塔」と名付けられたのですが、「魂魄」の意味は「魂」は「たましい」、「魄」は浮遊霊の意味だと今回調べて初めて知りました。

合祀柱数3万5000は沖縄では最大の慰霊塔にあたるのですが、昭和54年2月摩文仁が丘に完成した国立沖縄戦没者墓苑にその大部分は転骨した現在でも、平和学習などでの見学の他にも、慰霊の日には多くの参拝者が訪れる場所でもあります。

塔は終戦直後の石積みの素手造りで崩れる恐れがあったため、平成元年補修。あわせて碑文の刻板が設置されたその塔の裏側には、以下の文が刻まれています。

にぎたまと なりてしづもる おくつきの
み床の上を わたる潮風

ただ。

この場所を語る上で少し説明を受けたことがありました。

この一帯は戦跡の保護を目的とした「沖縄県戦跡国定公園」の一部である、ということは冒頭に綴りました。

沖縄県民なら地元ニュースで目にしたことはあるかと思いますが、沖縄本島南部の土を採掘し、辺野古の埋め立てに使用するニュースを聞いたことはあるでしょうか。

大浦湾側の地盤が悪いことから当初の計画を変更し、さらに大量の土砂が必要だとする防衛省が、その大半を沖縄本島南部から調達可能との見解を出しています。

激戦地だった糸満市と八重瀬町には19の鉱山があり、そこから土砂が調達されるとみられているわけなのですが、その業者のうちの一社が、「魂魄の塔」の裏手の山を最大30メートル掘削し、すでに景観を変えてしまっています。

「まだまだ多くの沖縄戦の犠牲者の骨が残っているに使うのはやめて欲しい。」
「なくなった人を二度殺すのか」

そんな声を多く目にしました。

沖縄には未だ収集されていない遺骨が約3,000体近くあるとされていますが、その遺骨は沖縄県民のものだけでなく、日本軍や朝鮮半島出身者や米軍人も数百人いると言われています。

たとえそれが遺骨の状態であっても、家族に会いたいという想い。

私は祖母の話からそれを痛感しています。

祖母が2歳の時に両親はフィリピンに出稼ぎに行ったそうです。
幼い祖母は(祖母の)祖父母に預けられたまま育ちました。一方、フィリピンに出稼ぎに行った両親には現地で祖母の弟と妹が生まれましたが、両親がなくなり弟と妹は引き上げ船で日本へ向かいました。

当時20歳を過ぎていた祖母は自身で本土へ渡り、その弟と妹を迎えに行ったそうです。

生きている、と信じて。

祖母の記憶にない両親の話を聞きたい、唯一の肉親に会いたい、その一心だったそうですが、探し当てた弟と妹はたどり着いた養護施設で遺骨となって対面したとのことでした。

重度の栄養失調だった二人がどうにか日本までは生きて地を踏んだことに涙していました(船の中で亡くなると、そのまま海に投げられた話もあったそうです)。

魂胆の塔に参拝する方々でお話を伺った時に、転骨されてもなおここ(魂胆の塔)に来る理由を尋ねたところ、「まだ(家族が)見つかっていない。ここにこれば合同で入っていたかもしれないから、ここに来ることで会える気がする」と話していました。

戦後80年近く経った今でも、家族に会えていない方々が沖縄のみならず、各地にいるかもしれないことを考えると、ずっと待っているであろう家族や無念の最期を知らぬ地で迎えた方へ、かける言葉が見つかりません。

戦争の悲惨さ、平和の尊さを認識し、20万人余りの戦没者の霊を慰めるために制定されたわが国唯一の戦跡国定公園、という場所だということを、今一度認識してほしいと思います。

魂魄の塔のある敷地の向かいには綺麗な海が広がる

余談ですが、鹿児島の知覧特攻平和会館を訪れたことはあるでしょうか。

ここに行くと戦争の悲惨さだけでなく、戦争をしなければならなかった事情やその想いや家族への愛、まだ幼い少年兵士の気持ち、日本を守るための努力や考え方を理解できる場所でもあることから、他の資料館とは少し違う視点で「戦争」を見ることができます。

長崎平和公園・平和祈念像や、広島平和記念公園の広島平和記念資料館や原爆ドームでは、原爆の被害者達の悲惨な写真や映像を見ることで、戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを学ぶことができます。

沖縄にはいくつかの戦跡、平和祈念資料館があり、その中のひめゆりの塔には年間数十万人以上の人が訪れ、地上戦に巻き込まれた住民たちの話を聞くことで、戦争の悲惨さと戦争に反対する事を教えられます。

戦争の悲惨さと戦争はいけない事だと知ることはもちろん大切なことではありますが、「当たり前の事」を学ぶだけでなく、なぜ戦争をしなければならなかったのかということや、関わる兵士たちの人間としての心があったことや考え方などを同時に知る必要があると思います。

一方の話だけを聞いて判断することが良いことではないのは承知の通りだと思いますが、これらの歴史的出来事にも同じことが言えると考えています。

ただ ” 戦争による悲惨な体験談 ” を伝えて生きたい訳ではありません。
今回訪れた魂魄の塔には、北海道含め日本本土各地からの兵士が沖縄にいたことを示しています。

このような戦跡を訪れ、歴史を学び、体験者の話を聴くことも交えながら、本当の平和学習とは何か、どうするべきかを考えていきたいと思っています。

戦跡は他の遺跡同様、そこに現実として存在する「物言わぬ証言者」。

魂魄の塔はQRコードのある箇所での説明や前以てその場所のことを知らずに訪れると、広い敷地に各県の慰霊塔があるだけで、何をどう受け取っていいのかわからない場合があるかもしれません。

【 関連過去記事 】
戦跡から「沖縄戦」を見つめ直した、もう1つの沖縄

追記
「魂魄の塔」の近くに、ブッタが悟りを開いたと言われている菩提樹の分け樹の置かれた「沖縄菩提樹苑」があります。

沖縄戦で大きな被害に遭った沖縄県南部に貴重な菩提樹の樹が植樹されたのは、二度とこのようなことがおこらないよう恒久平和のメッセージを込めてとのことだとか。

菩提樹の分け樹がインドから国外に持ち出されたのは、紀元前3世紀 アショーカ王の皇女サンガミッタがブッタガヤからセイロン(スリランカ)に持ち出された以降なかったということや、ダライ・ラマ14世は、2度来沖されていて、その時の足跡石碑もある貴重な場所です。

動画には、その場所も収められているので興味のある方は観てみてくださいね。

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