伊原第一外科壕跡

ななちゃれんじ
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伊原第三外科壕から約300mの場所にある自然壕で、沖縄陸軍病院の機能が置かれ、ひめゆり学徒隊も滞在した伊原第一外科壕跡。

最も多くの犠牲者を出したと言われる第三外科壕跡のすぐ脇には、ひめゆりの塔や慰霊碑が建立され、多くの観光客が立ち寄り知る人の多い場所でもあります。

そこから歩いて数分の距離にある伊原第一外科壕跡の存在、恥ずかしながら沖縄県民である私自身、今回調べていて初めて知りました。

この第一外科壕でも米軍の砲弾が着弾し犠牲者をだしてはいるものの、第三外科壕に比べると少ないことと、幹線道路から少し奥まったさとうきび畑や住宅に囲まれている場所にあるという場所柄から、観光地化していないのかもしれません。

同時に、学校教育で学ぶ沖縄戦は沖縄でも本当にわずかな概要しか学んでいなかったんだということを痛感しました。

国道側の入口にある第一外科壕入口の碑、バイクでよく通っているのに見ていなかった碑でした。

伊原第一外科壕入り口看板

ひめゆりの塔から僅か数百メートルの場所に位置する伊原第一外科壕跡は、南風原陸軍病院糸数分院として使われていた糸数アブチラガマから南部に撤退を命令されたひめゆり学徒16名をはじめ、医療スタッフと連れて来られた重症患者と、南風原陸軍病院津嘉山経理部と第一外科での勤務者が入壕した場所になり、当初は伊原糸数分室壕と呼ばれていました。

南風原陸軍病院のスタッフは、南部撤退の際山城の本部壕、伊原第一外科壕・第二外科壕・第三外科壕(ひめゆりの塔の場所)、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕へと分散配置されることになります。

この配置が最終的に生死を大きく分ける結果となってしまったことを知ると胸が締め付けられます。

茂みに埋もれるようして、ひっそりと建つ「第一外科壕跡」 と刻まれた慰霊碑。
その下の石板は、風化や汚れによって読むことができませんでした。


慰霊碑の左手に、伊原第一外科壕跡地があります。

伊原第一外科壕跡も伊原第三外科壕跡どちらも、ひめゆり学徒隊が沖縄戦末期に昼夜を徹して看護活動にあたり、そして犠牲者を出した壕なのに、訪れる人が少ないこともあるのか、寂しい雰囲気もありました。

伊原第三外科壕に比べ、伊原第一外科壕はそのままの姿を残しています。

昭和20(1945)年4月1日、米軍が沖縄に上陸を開始、沖繩陸軍病院は後送されてくる負傷兵を南風原村喜屋武の八五・六高地 横穴式洞窟内病院において治療にあたっていましたが、5月21日、甚大な被害を受けていた第三十二軍は防御に適した南部への転進を決定、沖繩陸軍病院に伝達します。


21日、沖繩陸軍病院は転進準備を開始、24日、各科、分院ごとに降りしきる豪雨のなか第一外科は南風原を出発、南風原、東風平、志多伯、与座、真栄平、真壁を経由し、26日、波平と伊原の自然洞に入ります。伊原の第一外科壕は糸数分院(16日、解散)、軍経理部職員も合流します。

同壕はアブチラガマとも呼ばれ壕口を丸太、土嚢で偽装、炊事場、手洗い、2段寝台があったようです。

敵の急速な浸透、人員不足、医療機器、医薬品、糧食の欠乏、患者の激増により病院としての機能は殆ど停止するなか、6月16日、敵弾により病院長・廣池文吉大佐が散華、庶務科長・佐藤悌二郎医少佐が病院長代理として指揮を継承します。


敵の急迫により波平の見習看護婦の一部は伊原へ転進しますが17日、伊原も至近弾により多数の負傷者が発生、18日、第二外科壕が馬乗り攻撃を受けたため夜間、伊原へ転進します。

19日0000、敵の急速な浸透、軍司令部の玉砕方針の情報に病院長代理・佐藤医少佐はこれ以上の継戦、治療続行は困難と判断、集合していては危険なこと、また最後の斬込みを行うにあたり雇員・傭人・学徒を軍から切り離し逃がすべく陸軍病院の解散を下令、各壕から彼女らを送り出します。


未明、佐藤医少佐は各科長に斬込み、及び国頭方面に突破し遊撃戦移行を下令、生存者を率いて斬込みを敢行し散華、沖繩陸軍病院は玉砕します。

20日、第一外科長・比嘉監昌医中尉、上原貴美子看護婦長ほかは本部壕へ合流すべく伊原を出発、第三外科壕を経由し山城に向かう途中敵弾を受け散華、第一外科は玉砕します。

この壕の南にあった「沖縄陸軍病院山城本部壕」に砲弾が直撃すると、本部壕・波平第一外科壕・糸洲第二外科壕が壕に合流します。


6月17日、この壕の入り口近くに砲弾が直撃、ひめゆり学徒・病院関係者・炊事婦が死傷し、その翌日の18日には引率教員によりひめゆり学徒らに軍の解散命令(学徒解散命令)が伝えられ、女子学生らは壕を後にしました。

※沖繩陸軍病院については『南風原八五・六高地 沖繩陸軍病院 横穴式洞窟病院』参照

もともとは伊原集落の避難壕でしたが,後に,沖縄陸軍病院の分院として利用されました。

資料によると地元民の追い出しや、泣く子の処分などが行われたという証言があるようです。

伊原第一外科壕跡へ向かう途中、近くにあった民家の塀を越すように咲いていたハイビスカス。思わず目を奪われました。

伊原第一外科壕跡は現在、土や水などが流れ込んでおり、壕の内部には立ち入ることはできないとは聞いていました。
その日、壕内に立ち入る装備をしていなかったため、下の方まで確認はできませんでしたが、階段のように石が積まれているので少し入ることができます。

こちらも自然壕なので、天候によっては足元が大変悪くなるため自己責任ということは念頭に置いて訪れてほしいと思いますが、ひめゆりの塔に立ち寄る際には少しだけ足を伸ばして貰いたい場所ではあります。

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