前回綴らせていただいた戦跡から「沖縄戦」を見つめ直した、もう1つの沖縄 ①。
動画の方からもお声をいただき、重苦しい内容にも関わらず真剣に観てくださっている方がいるのは、すごく励みになりました。
苦しくなるようなものばかりを、悲惨な過去を描きたいわけではございません、その想いをぜひ最後まで読み進めてもらえれば嬉しく思います。
*今回の記事はいくつかの戦跡をまとめた記事になりますので、その場所の詳しいお話はそれぞれの記事をご覧くださいますようお願いします。
沖縄陸軍病院山城本部壕と沖縄陸軍病院之塔、伊原第一外科壕と荒崎海岸。
これらに共通する「ひめゆり学徒隊」のお話も含むことになります。前に白梅学徒隊のお話は綴っていましたが、ひめゆり学徒隊については多くの方が知っていることもあって、少し遠巻きにしている部分がありました。
ただ、今回訪れた場所には彼女たちの存在がありました。
南風原陸軍病院を後にしたひめゆり学徒隊は、東風平・高嶺・真壁を経由して摩文仁村(現糸満市)の伊原・糸洲・山城にたどり着きました。
軍病院はすでに山城の洞窟内に本部を構えていました。病院部隊は、各尿糖ごとに周辺の洞窟に分散しました。第一外科壕と第三外科壕は伊原の県道を挟んで隣り合っています。第二外科壕が糸洲にありました。
医薬品・食糧も底をつき、野戦病院としての機能は失っていましたが、ひめゆり学徒隊の任務は主に伝令や水汲みなどでしたが、砲爆弾下の中ではこれがもっとも危険な任務だったと言われています。
6月14日、山城の本部壕が直撃を受けて病院長以下多数が即死しました。学徒からも死者が出ています。
17日、伊原の第一外科壕にも直撃弾が落下、看護婦や学徒の多数が即死。続いて糸洲の第二外科壕も米軍の馬乗り攻撃を受けました。
そして6月18日。
突如ひめゆり学徒隊に解散命令が伝えられたのです。周囲を敵に包囲された状況下、頼るべき組織を失い、茫然自失の状態で学徒たちは別れの歌を合掌して洞窟から出て行きました。
第一外科壕は19日未明に脱出に成功しましたが、隣の第三外科壕は間に合わず、脱出直前に洞口からガス弾を投げ込まれ、壕内はたちまち地獄と化しました。生還したのはわずか数名。
現在その洞窟の上に「ひめゆりの塔」が建っています。
しかし、脱出に成功した生徒たちも本当の戦場の地獄はそこからでした。
荒崎海岸まで逃げて行った1グループは6月21日、敵艦隊を目前にしながら手榴弾で自決。ひめゆり隊関係者の戦没者194名のうち128名は解散後の戦没者なのです。
現在、第三外科壕の上に建立されたひめゆりの塔は戦跡コースに必ず入るものであり、沖縄戦の悲劇のシンボルとして知らない人は少ないほどだと思います。しかし、整備が行き届いたことで壕の中は入り口程しか覗くことはできません。
*ただ、ひめゆり同窓会では、このような観光化と殉国美談化に歯止めをかけようと「ひめゆり平和記念資料館」を建設し力を尽くしてきました。現在リニューアルされていますが、1989年6月開館の資料館の展示は。生存者の証言記録を忠実に再現し、ひめゆりの真実を後世に伝えることを目指しているそうです。
彼女たちがどのような状況下で過ごしていたのか?
それを知るには第一外科壕と本部壕がサトウキビ畑や住宅地の中にひっそりと佇んでいます。
今回初めて胸のあたりを掴まれて引っ張られるような感覚になりました。
まだ昼間の明るい時間なのに、深く重い闇の底から飢えて傷ついた傷病兵や避難民たち、そしてこの島の果てまで追い詰められて短すぎる生涯を踏みにじられていった学徒たちの声なき声。
荒崎は、沖縄本島最南端の岬。
海岸は荒波に洗われ、亜熱帯独特のサンゴ礁の発達が見られず、鋭い刃物のように岩肌がささくれだっている。この海岸が沖縄戦最後の地獄になったのです。
戦闘の末期、この海岸には首里から那覇から、あるいは島尻の村々から逃げてきた避難民や敗残兵たちがひしめいていました。
陸上からは火炎を放射する戦車隊が迫ってくる。
頭上からは戦闘機がナパーム弾を投下して緑という緑を焼き払っていく。
そして海岸には、水平線が真っ黒になるまで艦隊がひしめき、昼夜ひっきりなしの艦砲射撃に加えて、50メートル先の波打ち際まで船艇が接近してきて機関銃を乱射する。
人々にとって目の前に広がる海は「絶望の海」でした。
絶望のあまり、軍から支給された手榴弾で自決するものも少なくなかった。米軍は海上からしきりに投降を勧告していました。命を助けるビラ(白旗)を持って港川まで行けば身の安全は保証され、食事も医薬品も与えると言う。しかし、手を上げて海岸に出て行けば、後ろから日本兵に狙撃される。実際に友軍兵に射殺された死体が水際にプカプカ浮かんでいた。
6月18日。
伊原の病院壕から脱出した学徒たちも、ついにこの海岸に追い詰められてしまいました。そして、用意してきた手榴弾で岩陰で一斉に自決。あの伊原の壕から出てわずか3日目のことでした。
ひめゆり学徒隊散華の跡と書かれた案内看板を目印に荒崎海岸へ行くことができます。
海岸へ出て左に行くと「ひめゆり隊最后の地」という記念碑があります(今回見逃していました)。
ギーザバンタは米軍第二次上陸の激戦地。
戦跡巡りをしていると、一日の最後の目的地でたたずむと、言葉にできない思いが湧き出てきます。海に囲まれた島国である沖縄の戦跡では、海であることも少なくありません。
綺麗な海は、それぞれの戦場追体験を描くのかもしれません。
ただ、戦争体験の継承の仕方にもふた通りあることを沖縄の戦跡は伝えていると思います。
平和教育の原点としての戦跡
皇軍の顕彰の地としての戦跡
このような地を巡り、その歴史を見つめるのは胸が締め付けられるものですが、歴史を知ることのできる環境がまだ残っているということはすごく大切なことなのだと気付かされた記事を見つけました。
「人知れず消えていく慰霊碑」という内容のその記事は、石川県のとある場所でのお話。
日清戦争以降の戦没者を弔うために遺族など地域の人たちが建てたものでしたが、老朽化で傾き「倒壊の恐れがある」として、3年前に市が地元の人と協議の上で撤去したのです。
失われ行く慰霊の場と高齢化する遺族の声に、あなたはどう向き合いますか。
というスタートに目が留まりました。「慰霊の場を守りたいけど遺族が高齢化していく」ということで支えきれなくなった現実があるのです。
「いま各地で同じように、慰霊碑などの撤去や移設が相次いでいます。」とありましたが、ふと沖縄も例外ではないことも気がつきました。激戦区となった沖縄県南部では、どうにか守られている部分もありますが、ガマや壕、当時の形を成す戦跡の老朽化などで立ち入り禁止になったままのものもあります。
全てを守り抜くことが難しいかも知れません。
少しでも今形あるうちに受け継げるものを受け継いでおかないと、体験者の本当の声と同じで本当の形をこの目で見る機会を失ってしまいます。しかもそれは、このような戦跡ばかりの話ではありません。
TVでサンドイッチマンの番組「博士ちゃん」をご存知の方は多いかと思います。
その番組で登場していた“世界遺産博士ちゃん”山本・リシャール登眞君の番組最後の言葉が印象的でした。録画もしていなかったので今となっては正しい文言全てをお伝えすることはできないのですが(涙)、
「世界遺産を通して違う国の人々が違う国の遺産を理解し、守りたい・知りたいと思うことが平和に繋がることだと思う。世界遺産を発信していくことが、自分なりの世界平和へできること」
というような内容のことを話していました。
番組中、あの池上彰と渡り合えるほどの知識の深さと思慮深さがにじみ出ていた上、17歳とは思えない本当にしっかりした軸をもつ子なんだと改めてファンになりました(笑)。
同時に、私が言葉にできていなかった気持ちを彼が言語化してくれた気がします。
沖縄戦を通して、沖縄の文化遺産を通して、「沖縄」を知り、自分自身の住む場所を知り、世界を見つめ、いつかそれが平和を考えるきっかけ作りになれば幸いです。
【 おまけ 】
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