「 報得橋( むくえばし )」| 沖縄の文化財

ななちゃれんじ
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普段あまり通らない道で、ふと目に留まったものがありました。
遠目で見ると何かしらの遺跡?みたいな雰囲気の石積み。

糸満市照屋。

報得橋( むくえばし )というそれは、 糸満市指定有形文化財でした。

「 報得橋は、もとは木橋であったので、大風や大雨のたびに傾いたり、
流されたりして、たいへん不便なときがあった。
尚氏王統12代の尚敬王は、毛鴻基や童能秀らの役人に命じて、橋を改修させた。
1732年8月21日から11月1日までの約70日間の工期に、
石細工4,687名と人夫11,668名を動員して行なわれた。
 
完成した橋の形は、まるで虹が架かったようであり、
また竜が誇っているようでもあると、当時の人々はその雄姿を讃えている。

報得橋は、小さな木橋から大きくて広い頑丈な石橋に改築されたが、
大正4年には自動車を通すためのコンクリートの二重のアーチ橋になった。
しかし、この橋も沖縄戦で破壊され架け替えられて今日に至っている。

戦争で破壊されたと思われていた報得橋の一部が、
平成3年8の改築工事の際に発見され、今回の移築復元となった。
復元された報得橋は琉球王府時代を偲ばせる貴重な建造物であり、
多くの方が郷土文化の体験学習に活用されることを望む。 」

糸満市教育委員会

歩道の横に石積みの遺構が見えてきます。これはかつての報得橋の跡で現在の橋の少し北側にあります。橋の下にはその昔、報得川が流れていました。

橋の下へ行くと前に張り出した石積みがあります。ここは上流から受ける水流と水圧を上手く橋の下へ誘導する工夫だそうです。

石造アーチの造りで石積みの状態はとても良い状態。

この様に石が噛み合うと各々の重さで更に強く噛み合うそうです。一部は新しく石をはめ込んだ様な跡がありました。

当時の土木技術の知恵と工夫が見えてくると称されてもいます。

下流側の壁には報得橋の歴史と石碑の案内板がありました。

摂政(しっしー)や三司官(さんしかん)、奉行として指揮を取った人物や石大工の名前も記載されていて不思議な気持ちになりました。


報得橋は、大里村字稲嶺から西へ流れ、東風平(こちんだ)を横切り、東シナ海に注ぐ報得川に架けられた橋で、現在の糸満市座波の南方、県道7号線にあります。

昔の報得橋は木造の橋であった為に、大部分や大雨で傾いたり流されたので毛鴻基 奥平親方安三と童能秀 安仁屋親雲上長義らによって1732年に石造へ改築。
工事は8月21日から11月1日まで70日の期間で行われ、石工4687名と人夫11868名で完成しました。

報得橋記には、1732(尚敬20)年に完成した橋が「あたかも虹をかけたごとく、その勢いは竜がまたがっているのに似て、往来の者も絶えないにぎやかさだ」(原漢文)と記されています。

大正4年には自動車が通れる様にコンクリート2重アーチになりましたが沖縄戦で破壊されて現在の橋となり、平成3年に橋の改築工事中に遺構が発見されて移築復元されたということですね。

ふと通り過ぎてしまうような道沿いに、このように歴史を感じるものがある・・。見逃せませんね。

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