「イリュージガマ」
沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭にあるガマの1つですが、沖縄にいてもその名前すら聞いたことがありませんでした。
イリユージガマは沖縄戦当時、日本軍の歩兵第89連隊第5中隊の本部としても利用されたほか、具志頭村役場の書類の保管場所にもなっていた場所になります。
画像は沖縄戦で実際に使用していた「ガマ」と呼ばれるものです。
防空壕、と言うとピンと来る方も多いのかもしれません。沖縄ではガマと表現することが多くあります。ガマと壕の違いはガマは自然にできた鍾乳洞を利用したもので、壕は人工的に手を入れたもので日本軍の陣地や病院などに使われたのが多くあります。
イリュージガマは住宅地の中にあります。道を挟んで向かいには住宅があると言う環境に、最初に見たときは驚きました。
沖縄にいながら「ガマ」と言う存在を知っているにもかかわらず、” 知らないことがある ”ということにも戸惑ったのを覚えています。
イリュージガマは住宅地の中にあるからなのか、住宅地の中にあるにもかかわらず・・なのか、数年前までここはゴミの山になって、このように見ることすらできなかったと話を聞きました。
2016年頃から2017年頃にかけて、平和ガイドをしている団体や地域の方々によって、それらは撤去することができ、平和活動の学びの場として利用することができているそうです。
ガマごとに管理なさっている方がいることと、安全面も考慮し自由に見学することは行えません(事前に予約が必要です)。
そんな平和ガイドの勉強ができるところに出会いました。今ここで綴っているのは、そこでガイドとしての勉強をした中の少しのお話です。
漢字で書くと「西与儀壕」、こちらがイリュージガマと呼ばれています。
イリュージガマには住民が避難していましたが、やがて日本軍に占拠され追い出されてしまった場所でもありますが、皆逃げてしまったため、こちらの情報がほとんどない状態で詳しいお話が聞けていないようでした。
ただ、ここは「犠牲者(亡くなった方)がいないガマ」として紹介されるので、本土からの修学旅行生たちの案内を見ていると、ガマという異質な暗闇の中でも少しばかり怖さが和らぐようです。
*中の写真はまだ撮れていません。
・・・何せ、ガマへ入壕し上がって来るまで日頃の体力不足が伺えるほど息切れと足の痛みを感じる、不甲斐ない状態(~_~;)
もう少し慣れたら情報追加してまいりますので、しばしお待ちをm(._.)m
イリュージガマは、近くにあるクラシンウジョウというガマに比べて足元も悪く、道幅もかなり狭くなっていて、何度か頭をぶつけました(ヘルメット必須です)。道というか、琉球石灰岩でできた自然の鍾乳洞の入り口を少し広げて人が通れるようにした道を進むと、中は余裕で立っていられるほどの空間が広がります。
修学旅行生などの平和学習ガイドを行うと、ガマの中で説明をしたあとに手元の懐中電灯の灯りを全て消して暗闇を体験しつつ黙祷を捧げます。
暗闇の持つ押しつぶされそうな感覚。何も考えたくないし考えられないような錯覚に陥ります。
少しばかり灯りがあったにせよ、お世辞にも良い環境とはいえない状態。命を守るため逃げ込んだガマでの日々を思うと胸が締め付けられました。
イリュージガマの近くにもさらけ出されて一応ガマとして利用されたものがありました。
こちらはさらに情報がありませんでした。ただ、丸見え過ぎるので、もしかするとすぐ使われなくなったのかもしれませんね。
今年は終戦から77年、戦争体験者は年々減っています。戦争を伝えていこうとする現場では、いま何が起きているのかも少しづつ実感していくのかもしれません。
資料や戦争遺跡、当時の追体験もガマなどの崩落の危険性もあることから閉鎖が相次いています。
年数が経つにつれ戦争体験者が減少し、あと数年たったらゼロになるのは目に見えているものです。それに代わるものとして、戦争遺跡、資料や戦跡の保存が重要なことでもありますが、次世代の語り部の育成が大事だと言われています。
ガマとの関わり、「自分から」調べて繋いでいく気持ちになるまで長い時間がかかりました。
先日、シーサー(石獅子)のお話を綴りましたが、その時のようにどんどんやってきたことがつながっていくというのを感じた感覚は以前興味を持ち始め突き進んできた仕事の展開によく似ています。
▶︎ 沖縄の「シーサー」に向き合うきっかけ
小さい頃からおばあに聞いていたあの頃から、もしかするとここへの道は繋がっているのかもしれません。おばあをかなり待たせてしまいましたが、やっと歩み始めています。
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