白梅之塔

ななちゃれんじ
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前に富盛の石彫大獅子で出した画像ですが、今回お話する白梅学徒隊に所縁のある場所が映っています。

富盛の石彫大獅子

丸で囲んでいる場所は、現在東風平中学校のある場所。そこに第二十四師団第一野戦病院(山3486聯隊)が置かれていました。
3月6日から3月23日まで白梅学徒隊と積徳学徒隊の衛生看護学は、そこで看護補助についてを教えられた場所となります。

白梅之塔は、沖縄県糸満市真栄里に所在する、沖縄戦末期に白梅学徒隊の生存者が野戦病院解散後、退避して来た壕の跡に立つ慰霊碑。

「ひめゆりの塔」は平和学習の場となり、毎日多くの観光バスと観光客が訪れていますが、この場所はとても静かな空気が流れていています。聞えるのは木の葉と鳥や虫の声だけです。

県立第二高等女学校の生徒たちを祀る慰霊の塔は正面に見える塔になります。

沖縄県立第二高等女学校の4年生56人は昭和20年3月6日、東風平国民学校の第24師団第1野戦病院衛生看護教育隊に入隊、集中教育を受け始めました。

米軍の艦砲射撃が始まると、東風平村の八重瀬岳にある山部隊第1野戦病院へ配属。

戦況が悪化した6月4日、軍の解散命令を受け地上戦の中を彷徨し22人が戦没した。この地に撤退した病院に合流した学徒から10人の犠牲者が出ました。

校章の白梅から戦後、「白梅学徒隊」と呼ばれるようになったのです。

白梅之塔のあるこの場所は、沖縄県立第二高等女学校の生徒からなる学徒隊の最後の場所なのです。

八重瀬岳の第24師団第1野戦病院解散後、16人の学徒がたどり着いたのが、上の壕(眞山之塔裏)、下の壕(白梅之塔側)と呼ばれた真栄里の自然壕。

上の壕は食糧弾薬倉庫、下の壕は傷病兵の看護場所で、学徒らは負傷兵の手当てを手伝っていました。

6月21日に下の壕が、翌22日に上の壕が米軍の激しい攻撃を受けたのです。

白梅之塔には学校関係者149人が合祀されています。

同じ敷地内には国吉住民が建立した「萬魂之塔」があります。糸満市国吉部落一帯で戦没した無名兵士4,000余名を祀ったものだそうです。戦後、国吉部落民が各地に散らばった遺骨を集めて洞窟に納め、のち、コンクリート製の塔を建立、祀ったものとなります。

私がこの地を訪れた時には、トイレや駐車場となる敷地もあり、党のある場所もアスファルトで歩きやすく、木々が多い中でも綺麗に清掃されていました。

この白梅之塔。2021年、誰もが安心して来られる場所に!とクラウドファンディングにて今の状態になったことを知りました。

以下、文章のみクラウドファンディングのサイトに掲載されていた内容をお借りしています。

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沖縄県立第二高等女学校(以下、二高女)は現在の那覇市松山公園の辺りにあった女学校です。

沖縄戦で米軍が上陸する前の1945年3月6日、第三十二軍司令部の要請で四年生56名が動員され、第二十四師団衛生看護教育隊に入隊しました。

3月24日から補助看護婦として、八重瀬岳中腹に置かれた第二十四師団第一野戦病院本部に配属。彼女たちは、後に白梅学徒隊と呼ばれるようになります。野戦病院壕や手術場壕での勤務は過酷そのものでした。

6月4日、野戦病院で勤務していた白梅学徒隊に解散命令が下り、わずか16・17歳だった少女たちは戦場の真っ只中に放り出されました。この解散命令後、22名の生徒たちが命を落としました。

糸満市真栄里ウテル原にある白梅之塔は、この22名の学徒隊戦没者の少女たちをはじめ、教職員、生徒、卒業生など白梅同窓会関係の戦没者を追悼する碑です。

1951年8月、現在地に二代目の白梅之塔を建立。以来、白梅同窓会では少しずつ寄付を募っては白梅之塔の周辺を整備し、香炉・供花台、記銘碑の設置、階段や通路のコンクリート舗装などを行ってきました。

ところがコンクリートの舗装工事から数十年が経過し、劣化や破損が目立つようになりました。数年前には白梅同窓会の一人が段差に足をとられ、アキレス腱を切るという大けがをしました。

他にも、大事には至りませんでしたが、やはり段差につまづいて転んだ人がいます。また、白梅同窓会や遺族の高齢化が進み、慰霊祭へ車いすで来られる方も目にするようになりました。

画像右は、現在地に移設された初代白梅之塔。終戦直後のモノがない時代、質素な塔を建てるのが精いっぱいだったと思われます。

それだけに先生や遺族、同窓生の切実さが胸に迫ります。ひめゆりの塔や師範健児の塔も、初代の慰霊塔は同じような雰囲気の琉球石灰岩製です。

1947年1月、糸満市国吉集落の南側に、小さな白梅之塔(初代)が建立されました。糸満市国吉の一帯で、白梅学徒隊の生徒たちが大勢亡くなったと生き残った生徒に聞いたためです。

関係者で慰霊祭を行いつつ、二高女の元教員たちは8名の生徒が命を落としたガマ(自然洞窟)2カ所の捜索を続けました。

1951年、ようやくそのガマを見つけて遺骨を収集。そのすぐそばに、二代目の白梅之塔を建立しました。


現在、平和学習の場として使われているガマ(通称:下の壕)は、もともと国吉区では「マチドーヌティラ」と呼ばれ、聖地として大切にされてきた場所でした。

集落を開いた祖先にあたる人が最初に住み着いた場として、赤ちゃんが生まれた時や、遠くへ旅をする際には、今でも無事を祈願するために訪れるそうです。

そんな場所も戦争中はお構いなしで利用されました。

白梅学徒の生徒6名は、6月21日に米軍の馬乗り攻撃を受けて亡くなったそうです。2名はここから少し離れた通称上の壕で、やはり馬乗り攻撃を受けて6月22日に亡くなりました。

上の壕で何とか生き延びた1人は、ひどいやけどを負い、自宅に戻ってから亡くなりました。

(通称「下の壕」、マチドーヌティラ。)

「沖縄戦を語り継ぐこと」「戦争の記憶を継承すること」の大切さは、多くの皆さんが感じていることだと思います。私たち若梅会もその大切さを感じているからこそ、このような継承活動を行っています。

でも、継承活動イコール平和ガイドをすることではありません。

慰霊碑まわりの清掃や、情報発信、慰霊祭やイベントの運営・設営など、スキルを活かしてできることがたくさんあります。SNSで情報をシェアすることだって良いのです。

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このように守っていこうと活動してくださる方々がいらっしゃるからこそ、今日までこのように戦跡から当時を偲ぶことができます。

私自身も小さくても何かできることはやっていこうと感じました。

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