「なんで今頃、あの頃の話を聞きにきたんですか?」
「é tarde demais agora (もう遅すぎる)」
「遅いですよ、遅すぎる」と笑っていた顔。
NHKの特番で流れていたのは、沖縄から戦後ブラジルに移民した男性のひたむきな問い。「遅い、今さら」の問いかけに私自身の胸も締め付けられるようでした。
銃剣とブルドーザー、恥ずかしながら、この日初めてこの言葉を耳にしました。
番組を観たきっかけは、沖縄移民の内容ということと、宜野湾市でもその昔稲作が盛んだったということに興味を持ったからでした。
ブラジルに沖縄県民が渡って115年、今では6世代にもなっていると言います。
「銃剣とブルドーザー」は、朝鮮戦争下の1950年代にアメリカ軍が占領下の沖縄で武装兵を送りこんで基地を拡大した、一連の土地の強制接収を指す表現。
沖縄戦後から米軍の占領下にあった沖縄で、米軍はさらに土地接収を進めるため、1953年4月に「土地収用令」を公布した。米軍は土地と家屋と生活を守ろうと抵抗する住民に対しては武装兵を出動させて土地から追放し、ブルドーザーを使って家屋を押しつぶしながら軍用地として土地の強制接収を進めたことから、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる。
Wikipediaより
” 沖縄戦のさなか、米軍は住民を収容所に送りながら広大な土地を接収して、基地建設を進めた。1951年サンフランシスコ講和条約の発効後、米軍に接収された土地の補償を求める声が上がったため、1952年11月、土地を接収された住民と賃借契約を結ぶための米国民政府布令第91号「契約権について」が公布されたが、賃貸借期間は20年、一坪の年間賃料は2セント(B円1円80銭)程度、約9坪でコカコーラ1本分という悪条件であったため、契約に応じる人はほとんどいなかった ” という概要でした。
Wikipediaには他にも、1953年4月、米国民政府の「土地収用令」によって沖縄県内各地で土地を接収していることが綴られていました。
こんな話を学校の授業でも聞いたことがない。
終戦から10年目の1955年7月19日、「沖縄有数の美田」といわれた宜野湾市伊佐浜の土地、さらに家屋までが米軍によって強制接収された。
「伊佐浜土地闘争」は強制接収に対する初期の抵抗運動として、その後の「島ぐるみ闘争」で象徴的に語られる史実となった。
その一方、渡伯した人々がどんな人生を送ったかは、あまり知られていない。どのような想いで土地を奪われ、故郷を離れたのか。どんな思いを秘めてブラジルで生きてきたのか。
そんな内容を収めたのが、今回の番組でした。
テレビの内容を綴るには膨大な量になるし、一度観ただけの話を綴るほど記憶はできず、取材した人は違えど、似たような境遇の方々の記事を発見したので、こちらにリンクを置いておきます。
興味がある方は覗いてみて下さい。
▶︎ 銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民(ニッケイ新聞サイト)より