独立高射砲第二十七大隊英霊の碑は、近隣に『陸上自衛隊 南与座分屯地 第4高射中隊』の基地のある沖縄県島尻郡八重瀬町安里にあります(こちらもスマホナビで表示される場所です)。
昭和19年5月19日下関市防空第23連隊にて編成。5月30日鹿児島発,6月10日那覇上陸。沖縄第32軍の直轄部隊。
第21野戦高射砲司令部が沖縄本島の高射砲部隊(師団配属高射砲部隊含め)すべてを軍高射砲隊として統一指揮をしており,独立高射砲第27大隊もその指揮下にあり、第24師団の指揮下ではなかったようです。
八八式七糎半野戦高射砲
九九式八糎高射砲とともに陸軍の主力高射砲として敗戦まで使用された。独立高射砲第二十七大隊はこれを72門装備していた。
独立高射砲第二十七大隊英霊の碑のある敷地入口には灯籠が立てられており、敷地を囲う塀には、『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』に纏わる説明版が設置されていました。
説明は以下のような内容です。
≪独立高射砲第二十七大隊英霊の碑≫≪旧沖縄派遣独立高射砲第二十七大隊(球第一二五一七部隊)は、昭和十九年五月二十日、山口県下関高等女学校にて編成完結、同月二十三日汽車にて下関から鹿児島へ向かい、二十四日仮兵舎第七高等学校(現鹿児島大学)に宿泊、二十八日輸送船「富山丸」にて鹿児島港を出港、途中、徳之島近海にて敵潜水艦の魚雷攻撃を受けるも、六月一日那覇へ上陸、八月一日現地沖縄召集兵入隊、十一月三十日鹿児島県大島郡出身者現役兵入隊、翌二十年二月一日重砲第四連隊先原崎照空分隊を編入し、二十七大隊は、将兵五七四名(大隊本部約一〇〇名、第一、第二、第三の各中隊にいづれも約一五〇名)で編成される。
二十七大隊本部(大滝大隊長)は、那覇市小禄垣花台地、第一中隊(中村中隊長)は、那覇市小禄四八・二高地、第二中隊(内田中隊長)は、なあh氏天久台地(四九・五高地)、第三中隊(光本中隊長)は、中頭郡読谷村座喜味城址、照空隊を天久・先原崎、聴測隊を那覇市波之上にそれぞれ配備する。
昭和二十年五月、軍の総攻撃に参戦するため大隊本部及び第二中隊の主力は宮城陣地へ、第三中隊は神里へ転進、同月上旬、大隊本部は新川陣地(南風原北側高地)、さらに、大隊本部及び小禄地区に配備されていた第一中隊は具志頭、第二中隊はの主力は与座中座付近に転進、同月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進、第二中隊、第三中隊も大隊本部と合流するが、この間の戦闘において、第一中隊長負傷、第二、第三中隊長戦死するなど多くの将兵が死傷し、第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。六月十日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみであった。
独立高射砲第二十七大隊英霊の碑 説明文より引用
六月二十日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出し、遂に、昭和二十年六月二十三日夜、独立高射砲第二十七大隊は玉砕するに至った。
二七会の調べでは、沖縄戦における独立高射砲第二十七大隊将兵五七四名中四六四名が戦死であった。
第二十七大隊は、最後は第三中隊以外の隊が本部陣地に集結したにもかかわらず、敵を攻撃するための高射砲は、たった一門のみ。続く文にも心が痛みます。
この『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』の敷地内には、『第二十七大隊(球第一二五一七部隊)』の戦没者名碑、『高射砲』、『聖観音像』、『故陸軍軍曹勲七等 岩上東八郎碑』が建立されています。
戦没者名碑の両側には、第二十七大隊(球一二五一七部隊)574名中464名の戦没者の名が刻まれた石板が建立されています。
その戦没者名碑のすぐ隣に『八八式七糎半野戦高射砲』が保管されています。
まるで溶けてしまったかのような劣化具合でした。他の方のお話で「砲身はともかく砲架の状態は悪くペンキでゴテゴテです」とあったので、実際に熱によるものなのか、保存のためにペンキで補強し直したものなのかは不明でした。
独立高射砲第二十七大隊
(球第一二五一七部隊)昭和19年5月20日、山口県で編成完結、6月1日那覇へ上陸、8月1日現地沖縄召集兵入隊、11月30日鹿児島県大島郡出身者現役兵入隊、翌20年2月1日重砲第四連隊先原崎照空分隊を編入。
二十七大隊は、将兵574名(大隊本部約100名、第一、第二、第三の各中隊それぞれに約150名)で編成。二十七大隊本部は那覇市小禄垣花台地、第一中隊は那覇市小禄四八・二高地、第二中隊は那覇市天久台地(四九・五高地)、第三中隊は中頭郡読谷村座喜味城址、照空隊を天久・先原崎、聴測隊を那覇市波之上に配置。
昭和20年5月、軍の総攻撃に参戦するため大隊本部及び第二中隊の主力は宮城陣地へ、第三中隊は神里へ転進。
同月上旬、大隊本部は新川陣地(南風原北側高地)、さらに、大隊本部及び小禄地区に配備されていた第一中隊は具志頭、第二中隊はの主力は与座中座付近に転進。
同月下旬、第一中隊は小渡陣地に転進、第二中隊、第三中隊も大隊本部と合流するが、この間の戦闘において、第一中隊長負傷、第二、第三中隊長戦死するなど多くの将兵が死傷し、第三中隊将兵で小渡の大隊本部陣地にたどり着いた者は数名であった。6月10日前後、第三中隊の主力を除き、各隊は小渡の大隊本部陣地に集結し、最後の決戦場として陣地の強化を図るも、この時点で部隊の火砲は一門のみとなっていた。
6月20日、生存者の約半数を数班に分けて夜間敵陣突破切り込みを実施すべく配備中、敵軍との交戦を行うも、大隊将兵に死傷者が続出、ついに昭和20年6月22日から2 3日の払暁にかけて優勢なる敵に肉薄戦闘を敢行し、壮烈なる最後を飾った。
沖縄戦における独立高射砲第二十七大隊将兵、574名中464名が戦死。
慰霊碑より
2016年頃の記事で「八重瀬町にある旧日本軍の部隊の慰霊碑にて慰霊祭が行われた」との放送があったそうです。その放送によると、この慰霊祭を行うのは、今回で最後と書かれていたのです。
慰霊祭を執り行う遺族や関係者の方々が、ご高齢となっており、慰霊祭を続けていくのは厳しい状況になっているようです。ここだけでなく、そのような状況は各地で出てきています。
独立高射砲第二十七大隊英霊の碑の存在すら最近知った私には少し衝撃でもありました。平和学習がどこまで追いつくのか、考えどころな気がしてなりません。
逃げる兵(高射砲は見ていた)は、地獄と化した沖縄戦を、逃亡兵として生き抜いた著者が綴る悲惨な真実の数々が綴られている書籍です。
召集兵たちは何を思い死んでいったのか。足の踏み場もないほどの屍、洞窟の中で迫りくる死の恐怖、飢えと渇き、同じ日本人への猜疑心…。果たしてあれが、この世の出来事だったのだろうか。
「逃げる兵」書籍PR文より
著者の渡辺 憲央さんは、この独立高射砲第二十七大隊に関わっていたり、クラシンジョウというガマでも生き残り、後世へ証言を残す役割を担っておられます。
この書籍、購入してみましたが読破次第感想も綴っていこうと思います。
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