第24師団第1野戦病院 手術場壕

ななちゃれんじ
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第24師団第1野戦病院 手術場壕は、沖縄県島尻郡八重瀬町字富盛にあります。

白梅学徒看護隊が動員していたことでも有名な壕で、「上の壕」と「下の壕」の2つの壕があるとのことでしたが、現在見ることができるのは、「上の壕」にあたるこちらの第24師団第1野戦病院 手術壕のみです。

「下の壕」にあたる第24師団第1野戦病院 本部壕の場所は、現在の八重瀬公園駐車場から少し下った場所になるようですが、5か所の入口があったが、現在は全ての入口が土砂で埋まってしまったそうです。

沖縄戦時、この丘陵地帯には「第24師団第1野戦病院」という部隊が配置されていました。人工的に手を加えた壕は病院としての壕。負傷兵が増加によって、東風平分院・新城分院も設置して対応に当たったとなっています。


軍医・衛生兵・看護婦は186人、学徒動員により配置された補助としての看護学生「白梅学徒隊」46名が負傷兵の対応を行いました。

第24師団第一野戦病院 手術場壕

沖縄県南部にある八重瀬岳中腹に設置されていた第24師団第1野戦病院の手術用の壕。

「白梅学徒隊」は沖縄県立第二高等女学校の女子生徒でまだ10代半ばの子どもたち。18日間の看護教育を経て病院壕に配属されてきました。

八重瀬岳(八重瀬公園内八重瀬城)

八重瀬公園駐車場の目の前にあり、案内看板等が整備されています。

第24師団第1野戦病院の手術用の壕


昭和20年3月6日、県立第二高等女学校在学四年生55名は軍命により軍属隣、第24師団第一野戦病院入隊衛生看護教育隊として、東風平国民学校で教育を受けました。

生徒の仕事は負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯あげ、排泄物の処理、死体埋葬など・・・。

砲弾飛び交う中での水汲みは、どんな思いだったのでしょう。
年端もいかない女の子たちは、何を思い日々を過ごしていたのでしょう。

看板も年数劣化で少々読みづらい箇所も出てきていましたが、ぜひご自身の目で読んでいただきたい内容が綴られています。

壕に向かう道の左右は岩壁に覆われていますが、定期的に清掃などの管理をしてくださっているようで、難なく向かうことができました。進むとすぐに壕口にたどり着きます。

第24師団第1野戦病院 手術壕入り口


1945年3月24日から1945年6月3日まで病院壕として使用されていましたが、戦況の悪化に伴い解散、そして撤退しました。

激しい地上戦の中、傷病兵の看護にあたった証言者の話によると、壕に入りきれないほどの負傷兵が運ばれ、十分な看護の手も及ばず、学徒も24時間勤務していたそうです。

壕内では患者のうめき声に満ち、排泄物などの悪臭が漂い、患者の体にはウジも湧いている状況で劣悪で苛酷な環境。 

採石場をさらに掘り込んだ壕で下の本部壕と同じく竹を組んだ2段ベッドが50〜60床ほど、岩壁に沿って一列に奥へと並んでおり、前線から運び込まれる負傷兵で溢れていた。

手術は連日夕刻から明け方まで軍医、衛生兵、看護婦によって行われた。
手足を切断する必要のある患者は上の壕に移され、切り落とされた手足は箱詰めにして砲弾の穴に学徒たちが埋めた。

負傷兵の運搬は主として防衛隊員や義勇隊員だったが、戦線からの負傷兵は東風平郵便局広場に運ばれ、そこから本部壕やヌヌマチガマに運ばれた。

車は下の大通りで止まるので、車から壕までは担架に乗せて運んだが、雨の日は大変だった。最初は昼間も運んでいたが、その後夕方を待って行動するのが日課になっていった。

4人で負傷兵を運ぶが、弾が飛んでくると患者はそのまま置いて隠れていた。軽傷者から重傷者までいたが、生き延びそうな負傷兵を運び、そうでない負傷兵はそのまま置き去りにされた。

本部では夕方、遺体を付近の畑に穴を掘り埋める作業が毎日続いた。

多い日は40体ぐらい。
初めの頃は棺桶に入れて埋めたが。後はそのまま埋めただけではなく、場所がなくなり前に埋めた棺や遺体の上に重ねて土を盛り上げて埋め、しまいには爆弾穴に放り込まれた。

6月3日、分院はそれぞれ閉鎖して本部に合流、高嶺村(現糸満市)国吉に移動することとなった。

そして6月4日、学徒隊には解散命令が出された。その時、負傷兵に対する「原隊」復帰の呼びかけが学徒隊最後の任務だった。

沖縄県高教祖教育資料センター「ガマ」より引用

中は崩落の危険があるとのことで入ることはできなくなっていたこともあり、入り口から壕内を見つめながら、学んだことや聞いた話などで記憶を繋ぎ合わせていきました。

記述によると壕の入口のすぐ右側に小部屋があり、手術はその小部屋で行われていました。壕前の広場には順番待ちの負傷兵が待機していましたが、薬品などの物品も不足していたので満足な治療など受けられるはずもなく、麻酔も打たずに手足をノコギリで切断するようなことは、表現として良いものではありませんが・・病院壕ではよく聞く話です。


術後でも消毒などできない為、患部が膿んでしまったり、蛆が湧いたり・・そういった蛆をピンセットで取っていくのも、白梅学徒隊の仕事だったのです。

壕入り口にある千羽鶴


綺麗に清掃した入り口手前には、千羽鶴が掲げられていました。平和と安らかな眠りを願う気持ちでしょう。

ただ、これは少し問題があるそうで「片付けることができない」とのことでした。なので、風雨にさらされると劣化しゴミとなってしまいます。

気持ちや願いが込められているだけに、それはすごく悲しいことです。もし千羽鶴などを奉納したい際には平和記念公園などへ奉納するのが良いそうです。

壕やガマへ行くと、体調に異変を覚える方が出てきます。修学旅行生の平和学習の時でも同じことがあるようです。

そのような方には無理強いをせず、平和を願う気持ちだけ頂戴しておくことをお勧めします。

もちろん、できる限り目を逸らすべきものではないでしょう。当時、その当事者であった子ども達や住民、兵士の思いがあります。

戦いたくもないのに戦わされた人もいるでしょう。負傷した挙句、家族や友人たちと再会することも叶わず絶望を感じたであろう無念さがあります。

命の大切さを言葉にするのは簡単です。生きるとは何なのか、を少なからず考える時間となる機会は持っていきたいと考えています。

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