沖縄の歴史に触れる中で、個人的に祖母の記憶にある沖縄戦を無視できないという思いから、遅くはなりましたがここ最近、やっと調べ始めています。
もちろん、祖母の記憶だけでは沖縄戦というものを理解するには不足があるので、まずは戦跡を巡りながらそこに刻まれた記憶を辿ることにしました。
驚いたことは、バイクでのツーリングでよく通過する道沿いに、沖縄戦の戦跡がいくつも存在していたことです。「こんな近くに・・」と言葉に詰まりました。
今回訪れた場所は国道331号線沿いから入って行くのですが、スマホのナビで表示されたので、それを頼りにたどり着きました(途中の案内看板に出会えなかったので、もしかすると入る道を間違えていたのか、見過ごしていたかですm(._.)m)。
沖縄陸軍病院之塔と沖縄陸軍病院山城本部壕跡。
別々の記事に綴ろうと思っていたのですが、ほぼ同じ敷地内にあったため、一緒に綴ることにしました。
沖縄陸軍病院之塔と沖縄陸軍病院山城本部壕跡は、沖縄県糸満市伊原にある沖縄陸軍病院終焉之地です。
沖縄陸軍病院の関係者を祀った慰霊塔「沖縄陸軍病院之塔」が建立されていて、その慰霊塔の台座部分に
“この塔は、戦没された沖縄陸軍病院の傷病将兵及び職員と学徒の慰霊塔である。
慰霊会(遺族会及び戦友の会)が昭和三十九年一月二十六日に建立し平成四年六月二十三日これを再建す。”
との碑文が記されています。
塔の前方には椅子が設置してあり、毎年6月23日には関係者遺族が追悼式典を行っているそうです。
慰霊塔の横に建立された歌碑には、陸軍病院の軍医であった永田紀春氏が詠んだという二首が記されていました。
春くるとひたすら待ちし若草の
萌え立ついのち君は捧げぬ
水汲みに行きし看護婦死ににけり
患者の水筒四つ持ちしまま
この二首を読んだだけで胸が締め付けられる思いに、しばらく動けなくなりました。
歌碑は、沖縄戦終結から60年を経過した2005年6月に建立されたそうです。
この山城本部壕は、沖縄戦末期に撤退してきた陸軍病院の本部勤務者が傷病兵の治療にあたっていた壕で、『ひめゆり学徒隊』もこちらに配置されていました。
沖縄陸軍病院之塔と沖縄陸軍病院山城本部壕跡のある敷地入り口には、QRコード付きの説明板が設置されていて、そこにはひめゆり学徒隊のお話が記載されていました。
【 ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校) 】
沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。
沖縄県立第一高等女学校の前身は、1900年(明治33年)に設置された「私立高等女学校」でした。1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。
1945年(昭和20年)3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった南風原に向かいました。
4月中旬~下旬、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、糸数分室が設置され、学徒たちも配置されました。5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への撤退の準備を始めました。25日には、沖縄陸軍病院にも撤退命令が下され、26日に学徒は伊原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、伊原の壕へ分散配置されました。
沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課
6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍の猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げまどい、追い詰められ、多くの命が失われました。
沖縄戦の際に動員された女子学徒による看護隊は、ひめゆり学徒隊をはじめ、白梅学徒隊・ずゐせん学徒隊・積徳学徒隊・梯梧学徒隊・なごらん学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊・八重農学徒隊の9つあったそうなのですが、ひめゆり平和記念資料館の資料によると、その中でもひめゆり学徒隊の動員数は240名と最も多かったそうです。
昭和1944年5月の動員令により、熊本陸軍病院において編成された球18803部隊(隊長:広池文吉軍医中佐)が、沖縄陸軍病院本隊の中核となりました。
最初は那覇市樋川にあった開南中学校を拠点としていましたが十・十空襲により破壊、炎上。陸軍病院本隊は夜を徹して南風原分院へと移動します。
年が明けた1945年3月、米軍の艦砲射撃が激しくなる中、看護学徒隊の配属が始まりました。
4月1日北谷・読谷村の海岸に米軍が上陸、沖縄での地上戦が始まります。
それにより前線から運ばれてくる重症患者が増加し、内科系の診療科を廃し3つの外科の診療科に改編されます。
しかし圧倒的な兵士や軍備を持つ米軍の前にどんどんと押される状況が続き、5月中旬には第32軍司令部より南部撤退の命令が下されます。
南風原を撤退してきた沖縄陸軍病院の本部壕として使われたのが、ここにある山城陸軍病院本部壕(通称サキアブ)です。
5月下旬に南風原からやってきた沖縄陸軍病院部隊は、近隣の波平・糸洲・伊原と分散して入壕。当時この付近一帯は、まだ砲撃もなく、住民も自宅で寝起きしていたくらいのんびりした場所だったそうです。
しかしまもなく戦闘の最前線となり、野戦病院となるはずが、治療薬や医療器具もない状態に。ひたすら四肢の切断術が行われる以外にありませんでした。
その後6月14日(6月18日19時頃、という記述もありましたが)早朝にはガマ入口付近に至近弾2発が着弾し、2名の学徒と衛生兵、さらに広池病院長も戦死されます。
院長を失い病院壕としての機能を果たさなくなった陸軍山城本部壕にも解散命令が出され、砲弾の飛び交う中学徒隊は数人のグループに別れ壕を出て行くものの行くあてもなく、解散から司令官の自決によって沖縄の組織的戦闘行為が終わるまでの5日程の間に約200名もの戦死者を出しました。
沖縄陸軍病院之塔と歌碑が建立されている場所の反対側に、『サキアブ』と呼ばれるガマ『沖縄陸軍病院壕跡』があります。
碑を前にすると、本部壕跡の入口が見えてきます。
壕は定期的に清掃が行われているようで、比較的綺麗な状態に思えました。うっすらと下の方に折り鶴と何か木の札が建てられているのが見えました。
石段があったので、少し下まで降りて行きましたが、ある程度の場所から下がさらに暗くなっていました。この時、ヘルメットや手袋、ライトなどの装備を持っていなかったため、それ以上降りるのを諦め他のはいうまでもありません・・・。
沖縄県高教組教育資料センター『ガマ』編集員会発行の『沖縄の戦跡ブック ガマ』に表記されている壕内の見取り図では、横長に広い壕口から奥に行くにつれて少し狭くなっているようです。
手前側には炊事場や腰掛台、衛生材料置場などがあり、中間地点には休憩所、そして奥には院長室と池があるそうです。
以前は駐車する場所がなかったような記事もあったので、駐車場整備されたのは近年なのかな。
今回訪れた沖縄陸軍病院之塔と沖縄陸軍病院山城本部壕跡の周囲一帯には畑が広がっていました。
どの戦跡を訪れても” かつてこの一帯で熾烈を極めた戦闘が繰り広げられていたとは思えないほど静かな場所 ” と思うのが、戦争と平和を同じ場所で体感することなのかもしれません。
管理者が常駐しているわけではないので、完全自己責任な場所にはなりますが、だからこそなのか・・その静寂さゆえに壕が言葉にならない言葉を発しているようでなりませんでした。
装備を持っていたとしても、もしかすると下に立ち入ることができなかったかもしれないと思えるほど、胸を締め付けられ引っ張られるような感覚を、今もまだ覚えています。
(このような場所に訪れる際には、あまり同情をしないことと軽はずみな感覚で立ち入らないことにご注意くださるようお願いします。)