ギーザバンタと呼ばれる慶座絶壁。
ギーザバンタは海に流れ落ちる末広がりの滝のある、沖縄南部の絶景としても知られています。
”バンタ”は沖縄の言葉で”崖”を意味しています。
沖縄本島だと最北端の辺戸岬付近にある”茅打ちバンタ”や、うるま市の海中道路を越えた先にある宮城島の”果報バンタ”などでご存知な方も多いのではないでしょうか。
今回お話しするギーザバンタは沖縄県本島の南部、島尻郡八重瀬町にあり、サザンリンクスゴルフコースの外周の道路から行くことが出来る景勝地で、断崖絶壁から遠く太平洋の絶景を望むことができる場所。
あまり観光地化はされていないので非舗装ですが、駐車スペースとして20台くらいは停められます。
海へと流れる無数の滝は、沖縄本島内では滅多に見ることのできない景色となっています。
その海へと繋がる滝はダムの余剰水だそうで、近くにある慶座ダムの余剰水を放水することで滝ができているというから興味深い場所ですよね。
ただ、、、ここでまずお詫び申し上げます。
その滝の絶景は崖を降りて行かなくてはならず、ビビリな私はそれができなくてせっかくの機会なのにその絶景をお伝えすることができませんm(_ _)m ぜひ「ギーザバンタ」と画像検索をして見てみてほしいです(涙)。
標高40数メートルある断崖絶壁。
「太平洋に面した海が一望できる絶景スポットで、まだ雑誌やメディアにあまり紹介されたことがないので人も少なくゆっくりと観光スポットでもあります。」と紹介なさっている方もいましたが・・・雑誌やメディアでガンガンにTHE観光地としてPRできない理由があります。
確かに、滝と海のコラボレーションはなかなか他にないと思いますが、この美しい絶景が見られるギーザバンタは、悲しい歴史がある場所。
約80年近くなる太平洋戦争末期の沖縄戦、南部戦線の際に、米軍からスーサイドクリフ(Suicide Cliff=自殺絶壁)と呼ばれた絶壁なのです。
摩文仁の洞窟に置かれた第32軍司令部の最後の電信は、「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」で、傷病兵には青酸カリで毒殺するような状況に陥り、旧日本軍は、組織的な戦闘ができなくなっても、抵抗を続行させていました。
米軍からの艦砲射撃や火炎放射により追い詰められた島民は、岩壁にあるわずかな岩陰などに隠れた他、死を覚悟して手榴弾や崖から身を投げて自決した悲劇の地とも言われています。
昭和20年5月末、浦添・首里の攻防戦で敗れた沖縄守備軍は南部に追いつめられていました。それとともに多くの民間人も逃げ場を求め、南部へ、摩文仁へと放心状態で足を向けていたのです。
その数、およそ兵3万、民間人10万人余ともされています。わずか東西7キロの喜屋武半島にそれらの人々が砂糖に群がるアリのように集まっていたのです。
陸からは勢いづいた米軍の機銃が、海上には米小型艦、挟み撃ちの中で悲惨な状況が繰り広げられました。
「アダンの下にもぐっていたときですね。血やら人の肉やらが飛んできましたよ。―上から降ってきましたよ。何だろうと思った。着ているキモノにくっついたですよ」「岩はだで足が痛いんですよ。周りは真っ暗だし、少し歩くと何かにぶつかる。よく見るとそれが死体なんです。1体や2体じゃないですよ。無数に死体がありまして、避けて歩くのに大変なほどの数でした」
海上の米小型艦はスピーカーで何度も投降を呼び掛けていた。船に乗っている米兵が双眼鏡でこちらを見てるのが分かるほどの距離だった。
摩文仁にある沖縄県立平和祈念資料館に展示されてある戦争体験記の中より
銃を持っている日本兵を発見すると「銃を捨てなさい」と呼び掛け、隠れると「あと何分の間に捨てないと撃つぞ」と脅した。銃を捨てると「その調子。ありがとう」と叫んだ、という。
最初は恐怖におびえていた民間人も、やがて1人、2人と投降に応じるようになり、がけの片隅には投降した日本兵の武器が山となった。「あのがけをツルをつたって降りたのはいいですが、途中で艦砲射撃に遭うなど大変でした。その時おじが岩の破片を受け即死しました。カンプーをゆった50代ぐらいのおばさんたち4~5人も死んでました。腕がなかったり、首が切れたりして、何ともいえない光景でした」。
そんな歴史のある場所です。
トイレこそありませんが、駐車場も一応あり、入場も自由で変に整備されていない自然な状態の海ということからか、シュノーケリングやダイビングを楽しんでいる方々が多く見受けられました。
私もマリンスポーツは好きですが、やはり場所を考えると避けてしまうというのが沖縄県民なのかもしれませんね。安心して楽しめるという自然の環境を大切に守りながら過ごしてほしいと思います。
とりあえず、下の方まで続く階段が設置されています。
が・・・それでも最終的に滝の見えるところまで降りることができませんでした(汗)。
滑りやすく足元が悪いので、十分に気をつけてお尋ねください。
今でこそこの階段や少し歩道となる場所がありますが、当時にはなかったであろうことを考えるとこの崖で繰り広げられた必死の人々の思いに胸が締め付けられました。