バックナー中将戦死之跡は、沖縄県糸満市真栄里にあります。
道沿いにある階段を上がった小高い丘の上にあるバックナー中将が戦死した場所。
米第十軍司令官サイモン・B・バックナー中将は1945年6月18日午後1時15分、戦闘指揮中にこの地で戦死。
1952年に米軍の手により記念碑が建立されたが、1974年にキャンプフォスターに移設されたため、1975年6月に沖縄県慰霊奉賛会により現在の碑が建立されました。
将軍クラスの戦死者は唯一史上沖縄での彼だけだそうです。
ただ単にアメリカの圧勝、ではなく実は互いに激戦消耗戦であった事は沖縄戦での犠牲者の内訳を見ても感じます。
このバックナー中尉については、他にない論争がありました。
「沖縄戦、米軍司令官をめぐる謎」という記事を見つけましたが、その相違点や不明点が多くあり、興味深い内容だったのです。
六月十八日、バックナー中将は視察をかねて真栄里の高地をジープでもって訪れていた。
護衛を二人引き連れての視察であったが、警戒は手薄で軍装からも将官とわかる姿であった。
その姿を見た味方から「危険である。注意されたし」と無線で注意を受け一般兵の服装に変えたが、戦争が終結間際という気のゆるみもあったのだろう。
バックナー中将は、部下にも人望がありそれなりに有能だったとされているが、彼が突発的な死に見舞われたのは、実に牛島中将あてに降伏勧告文を送付して一週間後のことだ。
(証言を残している)松田氏が見守る中で、(狙撃したとされる)小野一等兵は一番偉そうなアメリカ兵に向けて引き金を引いた。
弾丸は相手の胸を貫き、敵兵は地面に崩れ落ちる。
この話が一人の妄想でなく、松田氏が実名で戦後の証言集で述べているということが謎なようです。
最高司令官であるバックナー中将が現場で戦死したのは事実で、この点には関しては日本側もアメリカ側の記録も一致している。
しかしながら「個人の狙撃によって」かどうかははっきりとされていないようです。アメリカ軍の公式記録では「榴弾砲の砲弾がそばに炸裂、破片が胸に突き刺さった」となっている。
残存兵たちがそう証言しているのだ。
戦後の役所の調べによると現地の部隊に「小野」という人物は存在しないとのことである。
日本側は南洋の決戦のころから物資の不足や補給の途絶で、防衛線で狙撃戦術をとることが多かった。
「日本軍は誰もが狙撃兵のようであった」というアメリカ側の証言があるぐらいなのだ。
その狙撃による攻勢によってアメリカ側もそれなりに被害をだしており、それは沖縄戦も例外ではない。
高級軍人の戦死もかなり相次いでおり、真栄里地域では第22海兵連隊長のハロルド中佐は狙撃されて死亡、十九日には第六歩兵師団副師団長のイーズリー准将という将官までも頭を射たれて戦死した。
高位の軍人もバタバタと狙撃されており、それより階級が低い現場の軍人となるとさらに多くなる。
状況から考えれば狙撃によって射殺されたとしてもそこまでおかしいとは言えないのである。
とにかく現在でも米軍の公式戦史では小野一等兵の狙撃によって射殺されたとはされていない。現地の慰霊碑でもそのようになっているという。
確かめたくても「狙撃兵としての小野一等兵」の行方も分からない。
”狙撃ではない”という考え方としては、平和記念資料館の運営サイトでのQ&Aに、「1945年6月18日に亡くなったバックナー中将の死因について、砲撃によるものと狙撃による説があるが、どの説が正しいのか?」というものがありました。その返答は「アメリカ軍側と日本軍側の証言をもとにした上原正稔さんのレポート(2002年 6月 琉球新報)の信憑性が高く、砲撃説が正しいと思われる。」
他にも「中将の近くで榴弾砲が炸裂して飛び散ったガラス片が胸部に当たったとのことになってい流」など。
”狙撃ではないか”という考え方では、「真壁方面にいた野戦重砲第1連隊の15cm榴弾砲陣地からは、10mの高さもない丘のバックナー中尉の丘を直視できないであろうことから、タイムリーに砲弾を特定の人物に命中させることは不可能でしょう。
第32連隊の松田氏の証言による百数十mの距離からの小野一等兵の狙撃なら極めて現実的。後世に伝わる小野一等兵の存在は確認できないとの件ですが、恐らくは米軍兵士による個人的な報復を恐れて狙撃兵の名を明らかにしなかったという推察もありました。
バックナー中尉戦死の1時間後には、同行していた第22海兵隊長のハーロルド中佐が狙撃兵に撃たれ戦死、翌19日には米第6歩兵師団副師団長のイーズリー准将が銃弾を受け同じ真栄里で戦死していると伝わっているので、命令により生き残った狙撃兵が最期の抵抗を行なったものと思われます。」
というお話もありました。
私が聞いた説明は砲弾説の方でしたが、バックナー中尉戦死後の6月18日以降、米軍が司令官の敵討のせいか戦闘が残虐化したということは話していました。
4月1日の沖縄上陸で始まった戦いは最後の6月中旬以降、「既に勝負があった」頃から死者が急増し、住民の約9割が殺戮されたのです。
戦争は様々な角度から見る必要がある、と話していた方の言葉に納得しました。
私たちは小さい頃から「日本軍がひどかった」とほぼの方が聞かされて育っています。しかし、米軍の行なってきたことが正当化されるものでも賞賛されるものでもありません。
それぞれの国の意見、召集され軍人となったそれぞれの国の人々。立ち位置が変わることでよりはっきりと「沖縄戦」の輪郭が見えるのかもしれないと考えています。
バックナー中将は自分の死の1週間前に 日本軍牛島中将宛に降伏勧告文書を打電しています。
「第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ 牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。 貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。 私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。 然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の使用する所となりました。 この上、貴下が戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。 私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を救助せられる事を勧告します。 明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待機させます。 貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。 昭和20年6月11日 米軍上陸軍司令官 中将 サイモン・バクナー」
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