沖縄本島最南端の岬、といえば「喜屋武岬」だと思っていましたが・・実はこの「荒崎海岸」が本島最南端だそうです。知らない人・・多いんじゃないかな。
というのも「車で到達できる」という意味での最南端だそうで、実際の緯度では、喜屋武岬東1kmにある荒崎海岸の方が約400mほど南に位置しているそうです。
沖縄南部の糸満市束里。
ひめゆりの塔から車で程近くに荒崎海岸という場所があります。
荒崎海岸という場所も、そこが「 ひめゆり終焉の地 」と言われていることも・・沖縄戦と向き合うようになって初めて知りました。
沖縄に住んでいても、このように知らないことが多くあるということをまざまざと知らされている思いになります。
米須(西)の信号から県道223号線に入ります。県道223号線を走ると「ひむかいの塔」「ずゐせんの塔」「大和の塔」などの横を通っていきます。それらを過ぎると「平和創造之森公園」が右側に出てきます。
県道223号がこの公園を突っ切る形で走っているのですが、公園を突っ切る手前に海の方向へ分かれる横道があります。その横道を進んでいくと荒崎海岸の方向へ進むことができます。
ただ・・上記の行き方を知らず、少し離れた場所からスマホのナビで向かったので、途中「大丈夫かな、この道」と思ってしまうような凸凹な道のりを経験することに(泣)。
不安がピークに達した頃に看板が見えてきました。
小道の横に看板があります。
茂みを抜けて行くと海岸へ出ます。
海岸に出たら左へ進んでいきます。 岩には簡単な階段が造られていますが、途中から整備が雑になっていきます。ひたすら平和記念公園を遠くに見ながら進みます。
調べが充分でなかったため、ひめゆり学徒隊散華の碑があることをその後知りました。
おそらくですが、気になってはいたものの登らなかったこの階段の先にあると思います。
ゴツゴツした岩肌の先に、荒い波の打ち付ける海が広がっていました。画像左側に見える岩は、カサカンジャーと呼ばれる伝説の岩塊。
琉球王国の正史として編纂された歴史書『球陽』に1832年9月10日(旧暦)の台風襲来時に海岸に3つの岩塊が打ち上げられたと記されており、この岩のひとつがカサカンジャーという推測だそうで、この岩が太平洋と東シナ海の境になっています。
一帯の海岸線には琉球石灰岩が強い波によって削られ、生物の付着保護作用によってできたサーフベンチと呼ばれる平坦面もあることから「喜屋武海岸及び荒崎海岸」として九州・沖縄初の国の登録記念物に選定されています。
喜屋武海岸及び荒崎海岸
(きゃんかいがんおよびあらさきかいがん)沖縄県糸満市
文化遺産オンラインより
指定年月日:20120919
史跡名勝天然記念物沖縄本島最南端にあたり、伝説に関連して信仰の対象となった巨岩があるなど精神的な意義を持つ海岸。琉球石灰岩の海岸段丘及びサーフベンチの海食(かいしょく)地形、海波の影響の程度による植生の帯状分布など、独特の地質・植生が優秀な風致景観を形成しており、貴重である。
荒崎海岸。
もうすぐ80年前になろうとするこの海岸が、アメリカ軍の艦船に埋め尽くされ、投降勧告のマイクが響き、海岸には死体がゴロゴロしていたと想像すると苦しくなります。
1945年6月18日、南風原の陸軍病院から南部へ撤退し伊原周辺の壕にいたひめゆり学徒隊に解散命令が出された。翌日、第3外科壕にガス弾が打ち込まれ、壕内は地獄と化した。ひめゆり学徒隊は、194名が戦死したというが、18日の解散命令後の死者が128名にもなっているという。
『歩く・みる・考える沖縄』等より
死の恐怖におののきながら三々五々壕を脱出したひめゆり学徒は、小さなグループに別れ、戦場をさまよった。海からは艦砲が、陸からは戦車砲や迫撃砲が、雨あられのごとく降ってきた。
荒崎海岸に追いつめられたグループは、同21日、米兵の銃撃の乱射を受ける中、一高女の教師1人と生徒7人、卒業生1人、県立第二高等女学校の生徒1人が手りゅう弾で自ら命を絶ったという。
数年前の遺骨収集の際に、付近から20余名の遺骨と第一高等女学校の校章が発見されているそうです。
山城の壕を出る時に制服を着て出発されたひめゆりの少女たちが、どのような気持ちでこの荒崎の地で亡くなったのかは今となっては知る由もありません。
波風はそのときと変わらず激しいものだとは思うものの、今ここにこうして立って過去の歴史をみていること自体平和なんだ・・と感じました。